日本盲導犬協会の震災活動

ワンアジア2015実行委員会では、公益財団法人 日本盲導犬協会における東日本大震災時の活動に対して、このたび表彰状を送ることとしました。また、イベント当日は、盲導犬が会場にやってきます。是非、この機会に復興支援に活躍した盲導犬の活動に触れてみてください。


東日本大震災「一年を振り返って」
~被災者として支援者として~

公益財団法人 日本盲導犬協会 リハビリテーション事業部
日本盲人福祉委員会 東日本大震災視覚障害者支援対策本部 コーディネーター
原田敦史

○はじめに

震災から一年が経過します。現地にいる私にとっては、あっという間に過ぎ去ってしまった震災後でした。震災直後は震災対策本部の活動を中心に動いてきました。しかし数か月過ぎると被災から復興する意味も含めての職場での普段の事業活動も行うようになり、震災との切り離しができないままの生活が精神的に負担になることもありました。そんな場面を乗り越えられたのは多くの人の支援があったからだと思っています。今回は一年を振り返る機会をいただきましたので、震災後からの私の動きを思い出しながら書いて見ようと思います。


○震災直後

私は仙台港のすぐ近くにおり、建物内を歩いているときにぐらぐらっと最初の揺れが起こりました。普段よりも大きい地震だなという感覚はありましたが、特に心配するほどでもないという程度でした。けれどもさらに大きい揺れが重なるようにつながって続き、店の品物が陳列台から落ち始めました。だんだん揺れがおさまってきて一息と思った次の瞬間、今まで感じたことのないくらい大きな揺れが襲ってきました。立っていることも難しいほどの揺れでした。外に出てくると、近くの家の瓦屋根の瓦がずれていき、店の前の大きな看板が上空で今にも倒れんばかりに揺れているのが見えました。
 何かしなければと思いつつ、自分自身の身を守ることも最低限のことだけで、ほとんど何もすることができませんでした。あえて表現すると、自分が映画のワンシーンに入ったような、悪夢を見ているような、そんな錯覚に陥った感じというのでしょうか。あまりの衝撃に目に映っている光景を現実として受け入れることができなかったのだろうと思います。揺れが収まった、少し弱くなったときにゆっくりとまわりを見ました。目に入った範囲内では建物は倒れておらず、大きな地震であったものの、日本の建物は随分しっかりしていると感心し安心したことは鮮明に覚えています。
 車に戻るとラジオでは津波が約40分後に仙台港に到達することを伝えていました。ただ周りの人も含めてまさか本当に津波が来るとは想像をしていませんでしたので、急ぐわけでもなく落ち着いて行動をしているように見えました。車で走り出してわかったことですが、信号は全て消えていました。途中では大きな店舗のガラスが割れており、電線が切れているところがありました。車で移動しているときも、最初ほど大きくはないものの余震が続いており、歩道には人があふれていました。これは大変なことになったと思いながらも、目に映る光景は信号がついていない以外は驚くほどの大きな変化がない(建物が倒壊していないという意味で)ところがほとんどで、信号がついていないため渋滞はしているものの、気持ちのどこかで安堵しながら仙台中心部に戻ってきたことをよく覚えています。
 結局その日は自宅に帰ってからも、停電のためテレビも見られず、情報はラジオからだけでした。余震は続いていましたが、テレビを見ていない分、ラジオの放送も随分大げさに報道していると、どこか人ごとのように感じていました。 本当に周りが大変なことになっているということを知ったのは、電気が復旧して、テレビをゆっくりみた震災の2日後のことでした。そしてさらに一週間後、利用者のお宅に訪問して、自分が震災時にいたところまで津波がきたことを知ったのでした。


○対策本部の立ち上げまで(3月末まで)

震災後にまず開始したことは、被災地域に住む日本盲導犬協会のリハビリテーション事業利用者の安否確認と仙台市内での被災状況を確認することでした。
被災状況の確認はガソリンが手に入りにくいため自転車で実施しました。体で感じた揺れの大きさ、テレビ・ラジオ報道からは、厳しい状況が伝えられるばかりでしたが、自転車でまわる仙台市内の様子は、原発の状況が不安定ということもあり、人があまり外にでていないということ以外は普段と変わらない雰囲気でした。特に仙台中心部は、大きく倒れたり、壊れたりしている建物はほとんどなく、一部瓦が落ちている家や古い家の塀が崩れている程度で、すぐにでも普段通りの生活に戻れるのではないかという期待さえ持たせる状況でした。特に予想していた塀の倒壊はほとんどなく、昭和53年の宮城県沖地震以降に塀の補強に取り組んだ効果が出ていたようです。
仙台市内でも遠方は難しいですが、とりあえず自転車で回ることができる利用者のお宅を直接訪問し状況確認しました。また視覚障害者情報センターや視覚障害者協会等の関係団体についても訪問し、お互いの無事の確認と情報交換、情報共有をしました。幸い訪問した方や団体は室内に少し被害があったものの無事を確認することができました。
一方で全体的な安否確認は一筋縄ではいきませんでした。まず岩手、宮城、福島の利用者名簿の抽出を行い、続いて電話による安否確認を開始しました。車での移動が制限される中、電話による確認作業は効率がいいはずでしたが、被災地では電話の受信規制だけでなく、発信規制もありなかなか確認作業は進みませんでした。ただ日本盲導犬協会は、県外にも施設があるため、県外の施設から安否確認を行いました。電話がつながった地域は被害も少なく、皆さんから「大丈夫です。」という返事をもらうことができました。毎日電子メール等で情報を共有し、少しずつ皆の無事が分かると職員の気持ちも落ち着きを取り戻しました。この方法ができたため、比較的効率よく安否確認ができたのではと思います。なかなか電話連絡ができない人は、インターネット上の安否確認データを検索したり、他の団体に問い合わせをし、3月末には約260名の安否確認ができました。
盲導犬ユーザーの安否確認等は盲導犬訓練士が実施し、被災した地域の55ユーザーの安否を確認しました。こちらも3月中に確認ができました。津波の被害のあった地域に住んでいた方もいましたが盲導犬も皆さんも命は無事で本当によかったです。


○対策本部の支援活動

 4月に入ってから日本盲人福祉委員会の中に設置されていた東日本大震災視覚障害者支援対策本部により、本格的な調査・支援活動(第一次)が開始されました。第一次として実施したことは、電話での安否確認ができなかった方への現地訪問と避難所訪問です。訪問した支援スタッフは日本盲導犬協会の職員を中心に、全国から視覚障害者の相談支援に携わる専門家を募集し、全体で50名近くになりました。具体的な支援の方法は、あらかじめ住所がわかっているが、連絡のつかない方には直接訪問を行い、不在の場合は近所の方に聞き取りを実施して安否の確認を行いました。津波の地域では自宅がなくなってしまっていて、近所に聞いて回ったり、近隣の避難所を回って確認をしても、行方が分からないという方が数名いらっしゃいましたが、多くの場合は電話の中継所の故障により連絡ができなかった方で特に大きな被害がないという事も多かったように感じます。出会えた視覚障害者の方には、困っていること、必要なもの等について話を聞いて、その場でできることについては対応しました。最初は携帯の充電器、電池等の希望が多くありました。食料品が購入できる場所の問い合わせ、病院の開院状況の確認などの情報を希望する方も多くありました。 避難所訪問による支援は困難でした。まずは避難所の数が多いこと、毎日状況が変わっていきましたし、場所がわかる地図がないためインターネットで細かく調べて地図を作る必要がありました。また訪問をしても視覚障害者の方がいないというところがほとんとで、一日移動しても支援ができないという日も少なくありませんでした。また避難所自体が情報を整理できておらず、視覚障害者がいるかどうか把握できていないため、スタッフはマイクで支援に来ていることをアナウンスしたり、目立つように「視覚障害者を支援しています」という表示を持って支援をつづけました。マスコミにも「効率が悪いですね」といわれた方法でしたが、全くの無駄ではなく、避難所にも視覚障害者の方はいましたし、自宅に残って生活しているという情報を避難所で聞いて訪問するということもできました。
 5月からは第二次調査と支援を実施しました。これは第一次調査の際に避難所にいた方への再度の訪問支援が主となりました。要望としては白杖や洋服等が必要という声が聞こえる一方で、まもなく仮設に入るのでそうなったら相談をしたいという声も聞かれました。また時期的に閉鎖された避難所も出始めており、その後の動向が分からないという方もでてきました。自宅に戻った方からは避難所での生活が大変だったという話もきかれました。全般的には支援というよりは相談が主という感じでした。情報をつかんでいない方への支援をできないかという相談は行政と続けており、この時期に宮城県で実施された市町村の安否確認調査に県庁職員と厚生労働省職員と日盲委震災対策本部のスタッフが同行できることになりました。また岩手県では、県から得た避難所を利用している視覚障害者の情報をもとに(身体障害者手帳と避難所名簿の照合による)避難所訪問を実施することができました。しかし、避難所に滞在している方は大きく減少していて、十分な成果をあげることはできませんでした。しかし、こういう形での行政との連携が次につながっていくことになりました。
6月以降は大きく動きが変わりました。それは県・市から支援対策本部の案内を沿岸部の障害者手帳1級または2級(重度)の方に送ることができたからです。行政との連携については後でまとめますが、この連携体制ができたことで我々が把握できていなかった方々への支援が可能となりました。この大きな枠での支援ができていなければ対策支援部としてできることは、5月中には概ね終わっており、自分たちの知っている、また知ることができた少数の方という非常に狭い範囲での支援で終わってしまったと思いますので、この広がりは一番の成果と言えるかもしれません。
 6月からの第三次調査と支援の内容は大きく分けて三つになります。
一つは我々日盲委の対策本部が活動しているという支援案内の発送です。これは県庁に支援スタッフが訪問し、封筒詰め作業も含めて行った自治体もありますし、行政から対策本部にあて名シールを持ってきて袋詰めを実施したところ、すべの作業を県が代わりに実施してくれた自治体もありました。しかし発送をし、案内を見てもらっても、連絡をしてもらわないことには、住所を把握していない我々は動けません。発送に当たっては、各県中身についてはほぼ同じものでしたが、読んで動いてもらうための工夫をしました。それは、支援物資(白杖、ラジオ、音声時計等)をお渡しできますので、同封の葉書に住所等記入して日盲委に返してもらう、困っていることを自由にご記入くださいとしたことです。震災後、一定の期間経過後の案内でしたので、どの程度の方に手を挙げてもらえるか心配していましたが、宮城県は約4割、仙台市では約2割、岩手県では約3割、福島県では約4割近くの方から反応がありました。今まで我々が把握していたのは2割弱でしたから、これは非常に大きい数字となりました。
二つ目は、支援物資の発送です。支援希望のあった各個人に白杖等の物資を送付しました。最も希望が多かったものはラジオで、これは約7割の方が希望をしました。震災後かなりの日数が経過していたにも関わらず、これほど多くの人がラジオを希望したということで、支援が十分に行き届いていないこと、視覚障害者にとって有効な情報源になっていることを再確認させられました。また特にラジオは家族が持っているものだけでなく、自分用のものが必要という声も聞かれました。また震災支援とは別に、この発送に合わせて新たに問題が明らかとなりました。今回支援案内を発送したのは1・2級の手帳をお持ちの方だったのですが、支援希望のあった4割近くの方が音声時計等の日常生活用具があるということを知らなかったのです。これは震災支援とは別の問題でもありますが、視覚障害者にとって当たり前の情報が届いていないということは大きな問題としてとらえ、必要な方には地元の支援団体等(盲学校や視覚障害者協会等)の情報提供をしっかりと行いました。
最後は、個人宅に訪問しての支援です。支援物資要望葉書の自由記述欄に気になることが書かれていた方、拡大読書器やルーペの希望があり実物を見てもらって選定を必要とする方を訪問しました。機器については見たことがないという人もいて、支援者が2名一組で業者からデモ用の機器を借りて車で訪問をしました。この支援は歩行訓練士、眼科医、教員等を中心に対応しました。訪問してからは、これがあれば字が読める、こんな便利なものがあったのかという声が多数聞かれました。また福島では原発関連の申請書への代筆や、マニュアルの代読も実施しました。
また関連支援団体とも連携した支援も実施しました。活動をするうちに視覚障害者の支援は日盲委が実施しているということで認知され、情報が提供されるようになりました。JDFや被災者障害者支援センター、行政からの依頼を受けて視覚障害者の訪問支援を実施するということができました。時間はかかりましたが、専門的な対応ができる団体と認めてもらえたことは、効率的な支援につながっていきました。


○被災地の状況

 被災地の状況はテレビや新聞、ラジオ等でも多く報じられていますので、ここでは被災地で見たこと、感じたことを個人的な視点で書いてみようと思います。
 仙台市内の雰囲気は最初に書いたように、建物の被害という点では目立ったものは多くありませんでした。ただ場所(地盤)によってはマンホールが盛り上がったり、路面が陥没したり、地盤沈下してしまい車の通行ができなくなったり、地滑りの影響で家が傾いたところもありました。我が家の近くでも住むことが「危険」という表示がされたところもありました。ただ先にも書きましたように、家の塀については以前の宮城県沖の震災以後、かなり基準が厳しくなったようで倒れているものはなく、経験が生かされていると感じました。被害の様子の多くは震災直後というよりは、行動範囲が広がってきて分かったことでした。また精神的な落ち着きもあるかと思いますが、日が経つにつれて冷静に風景を見られることができるようになってきて、改めて気がついたものも多かったように思います。
 一方で津波が襲った地域では、その被害の大きさは一目瞭然でした。目に映るものばかりでなく、風の感じや匂い、全体的な雰囲気全てから悲壮感が漂っていました。これはその現場に立った者でないと分かりにくい感覚かもしれません。数日前まで人が生活をしていたという痕跡が全くなくなったところでは、以前の様子を想像することさえ困難な状況でした。また山を下りながら進んで行くと、カーブを曲がった瞬間に今まで全く被害のなかった風景が一変してしまい津波の力の恐ろしさを目の当たりにして、自然と涙が流れることさえありました。そのようなところで支援を続けることはもちろん、支援を受ける側も大変で、支援当初は避難所や半壊のお宅でも空気が張り詰めていたというのも現地の特徴といえると思います。また同じ地域でも家の場所が数メートル違うだけで、自宅がなくなってしまった方と津波の被害がまったくない方がいて、同じ被災者として生活をしていくことも大変そうなところがありました。  現地の状況は訪問するたびに変わりました。ただ多くの瓦礫は寄せたという状態で、大きく雰囲気が変わるということはしばらくありませんでした。また現在も瓦礫は減ったものの復興という視点ではそれほど変わっていない状況です。


○国・行政との連携

行政との連携は最初から重要であると位置づけ、スタッフの時間がある時にはなるべく情報交換や対策本部の調査報告という形で訪問を行い、また状況確認の電話をするなどしてきました。
 対策本部として最初にしたことは、立ち上がると同時に、厚生労働省に手帳所持者等の個人情報開示等の要望書を提出することでした。その効果もあり、厚生労働省が発行した「生活支援ニュース」に対策本部のことを載せてもらうことができ、地域での活動を行いやすくなりました。この初期の動きが、その後につながる一歩となっていきました。  私が支援を行っていた宮城県でも一次調査を実施中の時から、県庁、市町村に継続的に報告を行い連携の姿勢を強めていました。その中で県庁から各市町村へ対策本部等の案内をファックスで流してもらうなどの連携をとることができるようになっていきました。しかし調査もある程度進み、自分たちが関わっていた人だけでなく、より多くの視覚障害者に対して支援をするという段階に入ると個人情報の捉え方で意見が異なってきました。行政としては個人情報の提供は難しいという姿勢でした。我々対策本部も一次調査の報告や支援結果を提示し連携の道を模索しましたが、行政も大きく被災し、また様々な団体が支援の提案を行ってくる状況ではなかなか判断が進まないようで時間ばかりが過ぎていきました。
そんな中、4月20日の毎日新聞が「“宮城県が情報提供拒否”視覚障害機器届かず」という極めて厳しい姿勢で報道をしました。その結果、厚生労働省が動き始め、本省と日盲委理事長(笹川氏)、対策本部事務局長(加藤氏)が協議し、被災した視覚障害者の安否確認を国から県に指示という形が出来上がり、県から市町村へと指示がつながっていきました。その結果、第二次調査の5月上旬~中旬において、宮城県の市町村が安否確認できない人を対象に対策本部と県と厚労省による合同現地調査を実施することができました。ここで対策本部で考えていた一通りの安否確認は終わりましたが、各個人の支援の必要性等については確認できず課題が残ったままの終わりとなりました。
そのため、対策本部としては視覚障害者に向けて支援の情報を伝えたいと再度行政との調整を開始しました。ただ安否確認が終わった以上、これ以上の協力は困難という反応でした。ここで我々は発想を変えて、住所が欲しいわけではなく情報を届けたいだけと考え、県職員に、資料や切手等を準備するので支援団体の案内を発送してくれないかと相談をするという方法をとりました。県としては住所等の情報開示も模索をしてくれていましたが、住所を渡さないのであれば問題が少ないということで県庁内でもスムーズに話が進んで対策本部の案内を発送することができるようになりました。沿岸部で被災した地域の1級、2級の視覚障害者全員に、県と調整した資料を6月に発送することができました。その対象者は約1000人となりました。同様に7月末に岩手県に約700人、9月には仙台市(仙台市は政令指定都市であるため宮城県とは別)に約400人への方がたに発送をすることができました。
福島県については仙台市の発送が終わり、是非実施してほしいという当事者・関連団体からの声を受けて行政に相談し実施しました。相談自体は以前からしていましたが、なかなか調整が進まず、他県の状況を説明し協力を依頼しても県としては実施しないという強固な姿勢でした。ただ住所が欲しいのでなく、情報を届けたいということで担当者と粘り強く交渉をしました。調整は難航しましたが、同時期に原発の資料発送があり、代筆や代読の支援もできるのかという問い合わせがあり、そういう協力もできるということで12月の初めに約400人に対して発送できるようなりました。


○対策本部の活動の評価と問題点

 未曾有の災害と表現されることが多い今回の大震災ですが、対策本部の活動としてはその中でもある一定の支援成果をあげることができたと思っています。
 対策本部を立ち上げたことで、県内の団体が連携をして名簿情報を共有し、効率的に最初の安否確認を実施することができました。いい形でスタートをできたと評価ができると思います。
一番の成果は時間がかかってしまいましたが、個人情報の問題を越えて、視覚障害者に対して支援の情報を届けることができたことだと思います。これは被災の3県で実施をすることができ、その結果支援をスタートした時には手帳所持者の2割程度しか支援をすることができていなかったのが、多くの視覚障害者を支援するという流れを作ることができました。個人情報問題を越えて支援をする形ができたということは今後につながる大きな成果としてとらえています。
また被災地の支援には全国で呼びかけた歩行訓練士を中心としたメンバーに入ってもらうことができました。個人宅に一件一件訪問した時間は短かったものの、専門的な知識と経験で適切な支援を提供することができました。東北は視覚障害のリハビリテーションの空白地域でもあり、なかなか専門家に触れる機会がない視覚障害者にとっても、いい機会になったと思います。実際に日本盲導犬協会のリハビリテーション事業部には相談やリハビリテーション訓練の申し込みが増えました。
一方で課題として残った問題点もありました。いま良かったこととして現地に専門家が入ったことをあげましたが、この現地に入った支援者の数は日本盲導犬協会の職員を除けば50名にも満たない人数です。日盲委という組織が作ったにも関わらず、下部団体から職員派遣がスムーズにいかなかったということは、広報の仕方に問題があったのか、各施設の支援の考え方が統一してできていなかったのか検証すべき問題です。また震災直後の支援希望は多くありましたが、半年以上がすぎると支援者を集めることもスムーズにできませんでした。どうしても日数がたつと個人レベルでの関心や意識は下がってしまうと思います。施設・団体で被災した視覚障害者のために人を派遣する動きや連携体制が取れればよかったと思います。JDFでは一週間単位で全国の施設から職員が交代で派遣され、対策本部を運営しており、少ない人数で実施している私などはうらやましく思ったものです。
もう一つは評価する点でもあげた視覚障害者への支援情報の発送です。全ての視覚障害者への支援を考えていましたが、実際に対象として実施できたのが、1級、2級の手帳所持者のみであったことです。これは行政とのやりとりの中で整理されていった結果ではありますが、3~6級の人が困っていなかったということではありません。加えて1級、2級の人も支援を希望した方にとどまり、情報が届いていたのか、本人の意思で希望しなかったかは分からないままでした。
一番の問題点は、支援のスピードが遅くなってしまったということです。対策本部の立ち上げも少し遅かったですが、それ以上に個人情報の問題にとらわれ効率がいい支援ができず、結果として一番支援が必要であったと思われる震災直後に支援を提供することができませんでした。また視覚障害者を支援する他の団体との連携や他の障害者団体との連携という点でも十分とは言えず、そのあたりも効率的な支援につながらなかった要因となりました。加えてこれもよく指摘を受けましたが、本部を東京におき活動を開始したことです。このことにより、どうしても動きが遅くなる部分があったようにも思います。
最後にもう一つ書くとすれば、今回支援の中で問題となったことの多くは、阪神淡路大震災の支援のときにも言われていたことでした。過去の経験を十分に生かすことができず、また過去の失敗を十分に生かすことができなかったということも問題点と言わざるを得ないと思いますが、日盲委に対策本部を立ち上げて組織作りを行ったことや、日頃から視覚障害者の相談支援に当たっている人を中心に活動したことなどは、阪神淡路大震災の時の教訓が生かされた面もあったと言えます。


○今後について

我々が考えられる、できる範囲で活動を行ってきました。マンパワーの問題もあり、はたして一人一人にじっくり支援ができたのか、どの程度の情報提供ができたのか、振りかえらなければいけないことも多くあります。また、すでに実施している部分もありますが、新たに我々と関わった人を、どう地域で支援する体制を作っていくのか、どのような形で地域に戻していくのかは問題となってくると思います。
また今回ある程度機能した支援体制が他の地域でも機能するのか検討をする必要があると思っています。今回は日本盲導犬協会という団体が、「人」の派遣に対して全面的に協力し私以外の職員も対策本部での活動を行うことができました。それが成功につながった大きな要因の一つだと思います。しかしながら、通常の業務を行いながら、そういう支援体制を構築するのは難しい施設がほとんどだと思います。今後は視覚障害者を支援する集団として、あらかじめ支援体制を構築しておく必要があるのではと思います。大災害が起きた場合は、例えば被災した県を支援する県を決めておく、各施設から一定期間支援職員を派遣するという仕組みを考えておくことが必要だと思います。また小さい災害は県単位での支援体制構築が必要です。各都道府県単位で視覚障害者の防災支援ネットワーク等の構築が望まれます。皆さんの地域では視覚障害者を支援する団体としてその様な防災活動をどの程度しているでしょうか。宮城ではようやく落ち着きつつありますので、各団体とは意見交換という形で話だけしていた防災会議を具体化していこうと思っています。


○終わりに

被災地域にいながら、支援活動を続けることは当たり前のことである一方、精神的に大変な部分もありました。回りの人々がなるべく震災から立ち直って、通常の生活に戻ろうとする動きがある中で、被災地支援という活動は、震災から自分を切り離すことができないという状態を作り出しました。それは津波のように引いては戻しを繰り返し私の中でストレス、負担となってきました。また他にも同様に支援をしている行政、医療、多くの団体がある中で弱音を吐くことが許されないという気持ちも強くのしかかりました。 震災直後は、切れそうになっているくらい張り詰めていたものも、このままでは長く支援を続けることができないと、力を抜いて冷静に対処するように心がけるになったあたりから少しは楽になった気がします。ただ一方で被災地以外の人々は、現地の苦しさや大変さ、そして美談を語ってほしいと要求してきます。そして大変な状況で頑張っている障害者を紹介して欲しいと連絡してきます。それがいかに大切で、今後に生かされるということは理解していても、対応は大変でした。被災地とそれ以外の温度差を嫌でも感じざるを得ない瞬間でした。
そんな中で、私は現地に入った支援者の一言に非常に助けられました。私の気持ちを組んで、手助けをしてくれる同僚にも恵まれていたと思います。しかしながら支援者を支援するそんな仕組みも必要だろうと思いました。
支援活動を進める中で、よく言われたことが淡々とやっている、冷静に対処しているということでした。自分ではそう思わずやってきたつもりでしたが、このように振り返ってみると、「淡々と」・「冷静に」というのが、私が私を守る一番のスタンスだったんだろうなぁと感じずにはいられせん。
文頭の「はじめに」では、一年はあっという間だったと書きましたが、ここまで書いてくるとやっぱり本当に長かったんだなと気がつきました。
震災から一年です。支援は続いていきます。対策本部としては一年で一区切りとなりますが、今後とも皆様のご支援をよろしくお願いいたします。


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